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【大学生向け】大学生の履修について思うこと




大学に通う身としてなんですが,楽勝科目やブラック科目を
学生同士で話し合い一喜一憂している光景が,現実として
あるので「大学の役割」が終わっているという指摘も完全に
は否定出来ないですね。それでも,社会人として1人前?に
なれてしまうのですから。


別に,「大学で勉強している人=偉い」という訳でもなく,もし
かしたら僕の周りだけがそうだけなのかも知れないので,断
はもちろんできません。ただ,あまりにも「教育」というもの
が蔑ろにされている気がして寂しいんですよね。大学側だけ
の問題ではないですよ。


休学を終えて改めて講義を見ても前とあまり変わり映えして
ないですね。また,学生も大学に文句を言う前に態度(行動)
で示した方がいいですよ。「居眠り」や「お喋り」という幼稚な
行動では何も変わりませんからね


上記の言葉は,履修シラバスを見ながら履修を考えていた
時に思いついたものです。休学という形で大学を一時離れ
ており,今回の履修(前期のみ)は,最後になるのでしっか
りとしたものにしたいと考えています。


大学の役割」が終わったという指摘と同時に,学生側にも
大いに責任があり自覚すべきだと思います。簡単な科目よ
りも少しでも背伸びをして難しい科目を履修すべきではない
でしょうか。今までの日本人教授による講義に文句がある
なら,外国人講師による英語の講義を受けるなど,「改善」
はいくらでもできます。


大学(の教授)を変えたいなら,行動(態度)で示しましょう。


<参考図書>


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