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生産主権から消費主権への遷移について


こんにちは、毎週恒例のブログ更新です。


「消費」について深く考えるキッカケになった2冊




社会人生活が始まる前の時間があるこの年末年始にかけてコピーライターとして有名な糸井重里さんの「インターネット的」や「ほぼ日刊イトイ新聞の本」を立て続けに読んでいました。この2冊に共通して私が感じたことは「生産至上主義から脱却して消費の形を問い直す」ということです。あくまでも私が感じたことがことなので冗談半分で読んで頂けたらと思います。



以前書いたコチラの記事でも指摘しましたが、過去数十年に渡って製品やサービスを供給する側である生産者側の論理が日本国内においてあまりにも強すぎたのではないかと考えています。戦後モノづくり(技術)国家を標榜して製造業を中心に日本の立て直しに成功した際の大きな成功体験を今なお引きずっており「良いものを作れば消費者は必ず買ってくれるはずだ」という発想が蔓延っています。これはまさに典型的な生産者側の論理ではないでしょうか。



このことを国内電機メーカーの衰退とサムスン電子などのグローバル企業の台頭を引き合いに出して「技術偏重からマーケティング重視に経営をシフトするべきだ」という声もビジネス誌や評論家などから頻繁にあがっています。しかし、私はこのようなマーケティング重視の経営という言葉すら生産者側の論理から抜け出せていない印象があります。



本来は「生産」というのは単独で存在するのではなくあくまでも「消費」とセットにして考えるべき概念であり、先ほども指摘したように生産者側の論理ばかりが重視されている風潮があると感じています。従って、いくらモノを作っても売れないという状態が続いてしまいます。最大の問題は「生産者側の論理が今まで過大評価されてきため消費という概念が全く育ってこなかった」ということです。糸井さんの言葉を借りれば「消費にクリエティブ(想像性)がない」と言い表すことができます



今後、本当に考えるべきは「どうしたら消費者に気持ちよくお金を使ってもらえるのか?」または「どういうときに人はお金を払ってでもモノを買おうとするのか?」ということではないでしょうか。要するに、生産至上主義(生産に偏重している状態)から消費(豊かなお金の使い方)に軸をシフトしないとお金が世の中に回らないのです。いくら良いものを作っても消費者が買ってくれなければ意味がありません。本来的には生産者も消費者もただの「役割」であり、人は場面ごとに生産者でもあり消費者でもあるのです。なのでことさらに「消費者目線」という言葉を出すことすらも変な話だと思っています。



これだけ成熟した世の中でモノを作ってもそんな簡単に売れるとは到底思えません。従来の生産重視から消費を豊かにすることを意識しなければいつまで立っても状況は変わらないでしょう。生産主権から消費主権へシフトすることができれば世の中が少し良くなるかもしれません。少し傲慢な言い方かもしれませんが「消費(者)を育てる」ことも社会の大きな課題だとも感じています。




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